織|田作 生誕 10/26
※太宰が例によって入水します
水中で、私はそっと息を止める。見えない虚像を見ようとして、ふと目を閉じる。
〝失うばかりだから、もう手には何も戻らない〟だなんて。幼い誰かの声から、目を背けて。
「違うよ、私はね、此処に居ることで初めて、〝生〟を見つけたのだよ」
現在――いま――の私が、幼い私に言葉を投げ掛ける。幼い私はぴくりとも微笑まない。只此の世を諦観した素振りで、昏い闇の底を彷徨う迷い狗のようなもどかしさを秘めていた。
「寂しいでしょう? 私の元へ御出でよ。私は私。君は私。〝道は此方だ〟。御出で」
震える肩をそっと抱き込んだ。私は震えている。人間に、人に怯えている。生に、怯えている。暖かさも、温もりも、切なさも、苦しさも、痛さも。寂しさも、私は、持ってなかった。
遠い遠い何処かに、忘却――わす――れて来て仕舞った。
「ごめンね、私。寂しいなンて、そンなの、云えやァしなかッたよね。……でも見給え、私はね、怯えていた訳でも、忘却れた訳でも、なかッたのだよ。……只、〝見当がつかなかッただけ〟。私がこうして生きているように、内に秘めた感情は、屹度誰かが拾ッて呉れる。必ず終着点――ゴール――は視える。其れは安直に死なンかじゃァない。生き給え。――太宰、治」
――〝本当は死にたくなんてなかった〟と云う置き土産を遺して。幼い頃の私が、儚く消えた。
「此れで満足して貰えたかい? 〝織田作〟」
目を開き、もう一つの虚像に視線を遣る。無意識に弧を描いた口許を覆う。織田作は柔い表情で、優しい優しいままの、あの時のように、微笑み返した。織田作が此の表情に成る時は何時も、肯定の印――サイン――だ。嬉しいようで、いじらしい、逸る気持ちを抑えるだけで精一杯だった。
恥ずかしそうに視線を彷徨わせる私に、織田作はたった一言、こう付け加えた。
「――有難う。最高の贈物――プレゼント――だ。最期にやッと、〝お前自身を救うことが出来た〟。……本当に、良かッた」
あの時は流れなかった感情が堰を切って溢れ出した。人を救うと決意した日よりも、もっともっと、下手をすれば黒く染まっていたあの頃からずっと、私が知らなかった感情だ。其れ等が、溢れ出している。
「――人を救う側に成れ」
そう云って、私を救済――たす――けて呉れたあの日から、私は織田作のように成りたくて、足掻いて、何度もぶつかった。終着点なんて終ぞ見えやしなくて、凍り付いた湖を歩き続ける感覚が私を支配していた。死にたくて死にたくて、私には向いてなんかないって、叫びたかった。其の衝動を払拭したさに私は無に成ろうとした。
けれど、織田作は、
「頬を伝ッて落ちる涙の雫も、掌から零れ落ちる水も、お前なら知ッている筈だ。未だ何処かに、迷狗が帰るべき場所を探し、彷徨ッている。其れを続けることこそが、お前が生きている理由を見つける、たッた一つの理由に成る筈だ」
と云って、私を何度も何度も引き上げたね。憶えているよ、厭に成る位。其れが厭で仕様がなくって、私は何度も入水に失敗した。うんざりしていた。
其れと同時に、胸の何処かに希望が見え隠れし始めていた。生きること、命を救うこと。誰かの笑顔の為に、帰るべき場所の為に足掻くこと。其れがどれだけ素晴らしいことで、どれだけ誰かの人生を、物語を描くことに成るのかを、私は、ある日やっと気付くことが出来たのだ。
「――私も嬉しいよ、織田作。織田作の笑顔が見られて、私も嬉しくて、堪らないよ。ねェ織田作。織田作は私に、私を教えて呉れたね。喜怒哀楽じゃァ説明が付かない程に、多くのことを。……人間を知るッて、人間を描くッて、こういうことなのだね。最期に、知れて良かッた。……本当に、そうだね……、私が、私を救えて――」
感情の波に必死に抗いながら、伝えたかったことを伝えた。織田作は私の言葉に、矢張り不器用な笑顔で返して見せた。何より、私が得たかったもの。そして、求めていたもの。零していたもの。全部呉れたから、今度は私が返す番だ。
「――此れでやッと、誕生日を祝えるよ。……誕生日、おめでとう。織田作」
ぶわっと云う音がしたと思うと、私は酷く咳込んでいた。視界が揺らめいて、肩で息をした。状況を察するまで、そう時間は掛からなかった。私は、今此処で、生きて呼吸をしているのだ。
「――うふふ、シュッパイだねェ、XXX」
濡れそぼった蓬髪、緩んだ包帯、じっとりと湿った衣服、外套。其れ等全てに、誰かの温度が有るような気がして。何故だかいじらしく成って。
そして、私はゆるりと立ち上がり、何ともなく流れ続ける流水に目を遣った。さらさらと、まるで決められた道を進み続ける彼等のように思えて。私は何処か懐かしい気持ちで、けれど進むべき場所、帰るべき場所が有るかのようにひらりと外套を閃かせ、踵を返し、歩き始めた。
――また一匹、現世を彷徨い続ける迷狗を救済する為に。
立ち上がり様、彼の口から放たれた人名は、吹きすさぶ秋風に、溶けて消えた。高い高い碧空の下、何やら愉し気に歩く青年の姿だけが、色濃く残っていた。
BGM:Azure Sky/IA おめでとうございます(∩´∀`)∩
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