太中 迷ヰ狗帰着点

双黒っぽいお話って何だろう……というテーマの元、試行錯誤を重ねた作品です!文傑お留守番なんで、一緒に行きたかった相棒に捧げます><

※カプ要素はふんわり匂ってる程度です

 路地を通り、其処を東に折れる。夜遅く迄中華街付近を犇めく奴等は真面な奴が居ない。夜なゝ盗みを企てる悪党や、不法に侵入して来た外つ国の輩など実に様々だ。勿論俺とて例外ではない。此処横浜は魔都と呼ばれるだけあって、年がら年中然う云った奴等が蔓延っている。
 路地を抜けると、いかにも宜しくない悪臭が鼻を掠め、俄に俺は顔を顰めた。幾ら任務帰りと云えども、悪人蔓延る横浜では、毎晩掃いて捨てる程の案件が発生している。今日も今日とて始まったかと溜め息混じりに臭いの元へと歩を進めると、此の世で尤も面を拝みたくない存在が、身体中を朱に染め地に倒れ伏していた。一気に気分が落ち込み、立ち去る考えもそこゝに其奴に俺は言葉を投げ掛けた。
「こんな夜更けにぶっ倒れて居遣がる腑抜けが居ると思えば──手前か太宰」
 生きているのか死んでいるのか判然としない太宰の太腿を軽く蹴り飛ばせば、苦しげに数回咳き込んでから、ゆっくりと太宰は目を覚ました。闇に染まった瞳はまるで焦点が合っておらず、ぐるゝと旋回を繰り返している。吸っている煙草を口許から取り出して煙を吐き、其の儘しゃがみ様にもう一度声を掛けた。
「おい太宰、生きてんのか死んでんのか何方だ、返事をしろ」
 定まらない瞳孔がぎろりと動き、俺を僅かに捉えると、緩やかに頬が綻んだのが見えた。
「生きていやがったのか、糞」
 露骨に悪態を吐き、煙草を銜えては息を吐いた。既に味が薄まり切っている所為で、きつい血臭が消えることはなく、用済みとばかりに地面に煙草を放り、右足で踏み潰した。
 俺の一連の挙動が目覚ましに成ったのか、ぽそりと太宰は唇から声を発していた。
「怯んで倒れるかと思えば、案外真面なのだね」
 かなりの出血で水分が不足して声ががさゝに成っていたり、酷い鉄分の欠乏で重度の眩暈に襲われているのが見て取れ、少しばかり心配に成り掛けたが見ない振りをし、平然を装いながらやおら立ち上がり、視線を明後日の方向へと向けた。
「自殺で失敗するような莫迦なんざマフィアでとうの昔に見慣れてる。流血だって例外じゃねェ」
「ビルからさようならしようとしたんだけどね、着地で足踏み間違えちゃって」
 死にたかったなァ、等とぼんやり呟いた太宰に「んなとこで死んでんじゃねェ邪魔臭ェ、」と云い残して踵を返そうとしたところ、涙交じりの震えたか細い声で太宰が笑った。
「確かに、慣れてなきゃ莫迦の一つ憶えみたいに暴れ狂ったりしないか」
「此処で首掻き切られたくなきゃ黙れ糞鯖」
 他人では想像もつかない程の苦しみを抱えていること等見えているというのにも関わらず、心にもない言葉を投げ掛けてしまう自分に嫌気が差し、云い聞かせたのだと開き直るように太宰の方へと振り返った。
 咎める俺の視線に、太宰はすかさず、「嘘に近い嘘じゃァないよ」と揶揄い始め、俺はそんな太宰を睨みながら、こっそりと懐から短刀を取り出し、直ぐ使えるように構え、眉を顰めて反論をせんとした直後だった。
「にしても中也は私が居なくても元気に遣れてるのだね、うんゝ、良かった」
「らしくもねェこと云うな、寒気がする」
 赤子が眠るかのようにそっと瞼を伏せ、全身の鮮血を拭うこともせず、身動ぎつつ太宰は零した。らしくもない太宰の言動に寒気が走り、思いの儘上記を述べれば、ふらつきながらも立ち上がった太宰は、俺の隠れて短刀を握っている右手へと視線を遣った。
「別にね、取って食おうだなんて考えちゃいないから其の短刀は仕舞ってよ。──あ、然ういや中也、一寸痩せた?」
 全く悪びれることなく、久し振りに会った知人と勘違いしてしまう程の潔さに、半ば呆れ返りながらも、俺はさっさと短刀を仕舞った。が、然う思ったのも束の間、身も蓋もない太宰の発言に更に眉を顰める羽目と成った。今度こそ切り刻んで遣ろうかと再び短刀に触れるが、間髪入れず、「否ゝ、誤解しないで、他意なんてないからさ」と乾いた笑いと共に太宰が云って来た為、俺は疲れ切った表情と声音で誰に云うでもなく呟いた。
「最近は遠征が増えてっからな」
 余程俺の発言が可笑しかったのか、堪えられないとばかりに笑い出す太宰をじろりと睨みつければ、「だってさ、」と口火を切り、
「働くのは大いに結構だけれど、私より痩せたら手のつけようないからね、判ってるだろうけど」
 等と口を尖らせ、自分の身体を擦りながら云ってみせた。
「手前程痩せる前に姐さんがブレヱキと折檻して来るのが火を見るより明らかだ」
 実際、幼少の頃から食が細い太宰は、姐さんから毎食時叱られてばかりでとても食事どころではなかったことが目に浮かび、思い起こしながら太宰に云えば、太宰も太宰で思い当たる節が有ったのか、表情を少し曇らせながら呟いた。
「姐さんは心配性だからね。私が中也と組むと決まった時なんて此の世の終わりみたいな顔してたし」
 太宰が云った通り、『双黒』を生み出す、と首領が口にした際、姐さんは見たこともない表情をし、俺を手放さないとばかりに強く抱き締めて来たのを憶えている。
 急に幼少期の記憶が呼び起こされ、又下らない罠にでも嵌められたのかという考えが過ぎったが、此奴が厄介事を持ち込んで来るのは日常茶飯事で、そして俺は此奴が仕掛けた落とし穴にまんまと嵌っている時点で取り返しはもう付きやしないのだ。
 云い換えれば嫌よゝも好きの内と云ったところだ。
 普段と何ら変わりのない様子の太宰に胸を撫で下ろしたことが悟られぬよう帽子を被り直し、冗談交じりに肩を震わせた。
「ったり前だ、人間失格の糞と可愛いゝ美少年が肩を並べて歩くんだからな」
 尚も肩を震わせる俺に、太宰は腑に落ちない様子で目を逸らし、幾らか真意の読めない声色でぽつり呟いた。
「本気で云っているのなら私、君のこと軽蔑するけど」
「半分本気だ」
苦手な冗談を吐かれ、判り易く気分を害した太宰に、気に留めるだけ面倒だと云わんばかりに背中を叩いて諭した。あまりにべったりと血痕が付着している所為で手に迄くっ付いて来るかと思えば、既に乾き切っていることが見て取れ、どれだけ待っていたのかと案じている己に嫌気が差した。
 目敏く気づいた太宰は俺の挙動の不自然さを勘繰り掛けていたが、数分探りを入れた後、張り詰めていた呼吸を吐き出したのか、肩がするりと下り、やがて自嘲的な笑みを浮かべ、掠れ切った声で羨ましげにこんなことを云ってのけた。
「そりゃ中也はマフィアに飼い慣らされてる狗だろうけど、私は未だに生き方すら満足に決められない迷ヰ狗だからね」
「知るか」
 総てを諦観した太宰の云い分に返す言葉が見つからず適当に吐き捨てると、視線を俺の方へと向け、先刻の態度を崩さず太宰は続けた。
「其の点、中也は良いよね。御丁寧にチョーカー迄貰ってさ」
「姐さんから貰った奴だ」
 先程とは打って変わった態度に疑念が拭い去れない儘ではあるが、自殺が失敗したのだから傷心であることには変わりないかと踏み、敢えて探ったりはしないで只々単調に太宰からの問いに答え続けた。
 斯く云う太宰は何時ものように俺を揶揄ったり嫌がらせを仕掛けたりすることはなく、本当のところは心の底から死にたがっていたのではないかと、俺に仮説迄立てさせ、然し当の本人は気にする素振りは欠片も見られず、逆に俺は焦燥が隠し切れやしなかった。考えなくとも、こんな処で倒れている奴の生死を確かめたり、餓鬼か何かの如く会話を愉しむ等、有ってはならないことなのだ。考えていられるかと帰路に着こうとしても、後ろ髪を引かれてしまい、立ち尽くした儘刻一刻と時間は過ぎて行った。
 己の愚図さに痺れを切らし鬱陶しげに溜息を吐いた。
「もうリヰドを引いて呉れる存在は居ないのに、自分の力で進んでるだなんて、一周回って羨ましいよ。だってね、私が飼い主でずっと来てたから、急に手放されるって考えもしなかったでしょ?」
 太宰の問いに半ば不貞腐れ、俺は答えた。
「どんな飼い主だ、邪魔臭ェ自殺主義者の癖によ」
「飼い主って、主人が居なくなったら後を追うなり何なりするかと思っていたけれど、私の勘違いだったようだね」
 聞いていて納得しづらい発言に煩わしさを感じ、反論するべく隣で立っている太宰の首根っこを引っ掴み、一思いに此処四年間で抱え続けていた思いの丈をぶち撒けた。
「手前みてェな奴に飼われてたなんざ、俺が思うこと自体が過信だ、糞鯖」
 俺と此奴の間には、長過ぎる空白が刻まれ続けている。何方からともなく開き過ぎた隙を埋めようとはせず、なかったことにして終着点を見つけ出そうとし、結局空白が埋まらない、染まらない白だということは、重々承知している。云わずもがな、判っている。だからこそ必死に目を逸らし、幾度となく透明に仕立て上げようと足掻いてはみたものの、今此の時迄諦観しなかったのは、何らかの糸が張られていたと見て先ず間違いはないだろう。
 "太宰治"という人物が消息を絶ったあの夜、到頭望みが叶い万々歳だと手を叩き祝杯でもするかと喜んだ俺と、反対に、あの儚い身を案じているらしくもない俺がせめぎ合い、自己を喪ったのかと悔しかったのを今でも執拗く憶えている。
 俺に其れだけの慈悲が残っていたと考えれば考える程、掻き消す為に進めていた酌の手は止まることを知らず、そして飲んだ数だけ涙を流し、かつて命を預けていた存在の存命を只管に願い続けていた。
 屹度俺はあの夜から、何をするにしても、奴の、太宰の顔が浮かんでは消える症状の煮え湯を飲まされていたのだろう。
 もうこんな所業は懲りゝだ、今夜で終わりにして遣ると腹を括り、「だからなァ、」と切り出しはしたが、易々と太宰に遮られる。
「居なく成って初めて気づくことも有るよ、中也」
 居なく成ったのも、リヰドを手放したのも此奴だというのに、確り俺の腹を読んでいる太宰の言葉に今度こそ癪に触り、俺は叫んだ。
「うぜェ存在が消えたってことだろうが、違うか!」
「うん、全然違う」
 俺の言動に太宰は笑いを浮かべ、漸く平常に戻り出したかと悟り、普段通りの会話をして様子を伺うことにした。
「逆に期待してんのが気に食わねェ」
 最大限の皮肉と嫌味を込めて云えば、露骨に表情が歪むのが見て取れた。
「私に着いて来て呉れてた中也だもの、期待しちゃうよ、そりゃ」
「勝手にしとけ」
「勝手にすれば良いのだね、では遠慮なく。──中也って初めて会った時小人が駆けずり回っているかと思う位小さかったけれど、今はもう立派なマフィアの五大幹部だ。驚くだろうねェ、当時の私達が見たら」
 感傷に浸る太宰の云い方に虚を突かれた心地で数回瞬きをした。掻き消える訳でもなければ、見えなく成る訳でもない。やっと手に入れた場所からかつて飛び出した、廃れた土地に戻りたくはないと拳を固く握り締めた俺を視認するでもなく、太宰は続けた。
「其れにさ、異能が使い熟せるように成った時なんて──」
「秘密、未だ有んだろ」
 思うより先に身体が動き、太宰の首を強い力で締め上げ、呼吸を制した。太宰は反射的に生唾を飲んだ。が、誤魔化しとばかりに口角は上がる。ひた隠しにしている本心に唇を噛んでいると、掌中の包帯が千切れる音が微かに聞こえた。知ったことか、血みどろに成っている以上、解かなければならんことの一つや二つ、平気で有ると胸中で呟いた。
 すると太宰は、締め上げられたことで上擦った声で、しらばっくれるかのようにして問い掛けて来た。
「如何して──然う思うんだい?」
 言葉を濁し、真意を隠し通す。何度探りを入れようとしても、結局寸での処で弾き返す此奴の遣口は、全く以って他者からの干渉を是としておらず、今にも殴り飛ばしそうに成る衝動を抑えるだけで精一杯な中紡いだ返答は、幼稚極まりないものだった。
「前から用件が有る時は必ず下らねェ話を引っ提げて相手が調子に乗ったと判りゃ、本題で突き落としてただろうが」
 下から太宰を見上げ、眉根を寄せながら述べれば、笑いながら太宰は首許の俺の右手に両手を添え、汗を滴らせた。
「ふふ、流石相棒、話が早くて助かるよ」
「隠してんなら今直ぐ吐け、しらばっくれ遣がって」
 徐々に強く成る絞首に太宰は呻き声を上げては咳き込みを繰り返し、やがて声色を落とし、ぽつりゝと語り始めた。
「此の頃中也、身体が弱って来ているだろう?」
「──あ゛?」
 鈍い音を立てながら太宰の痩身を壁へと叩きつければ、骨にヒビが入ったと思しき音色が聞こえ、反動で太宰が血塊を嘔吐した。息を荒らげ太宰は「……加減してよ、痛いのも、……苦しいのも、私、ゲホッ、嫌いだからさ……」等と苦しげに呻いたが、震える手で俺の手を外そうとしつつ、更に続けた。
「其の、手には、乗らない……って顔だけれど、結局、中也は、私に着いて行かざるを得ないし、私の手から逃れることも終ぞ出来ないのだよ」
 莫迦な中也、と付け加えた太宰に、俺も俺で負けじと爪を立てる。
「手前に飼われてた憶えは欠片もねェつってんだろうが」
「中也の命は私の支配下に在る、と云ったら?」
 予測していたのか否か、俺の弱点を真っ先に突くことはせず、油断した頃に突く辺り、腹の黒い奴だと気が緩み、俺の手がそろりと離れる。
 答えない俺に太宰は首を傾げ、
「矢張り、飼われている限り、"首輪を噛み千切るのは至難の業、って感じだね"」
 態と俺に聞こえるように呟いた。
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 あれから暫く黙りこくっていた太宰だったが、突然思い立ったのか、何も云わずに歩き始めた太宰の右肩を掴み、無理矢理に振り向かせる。
「狙いを吐け、でないと帰さねェぞ」
 ゆっくりと振り向いた太宰は、「未だ飽き足らないのかい? 中也は物好きだねェ」と付け加え、大人しく狙いを打ち明け始めた。
「良いよ、そんなに聞きたいのなら教えてあげる。と云っても、嫌がらせの部類だけどね……主人に従うのが飼い狗の役目だ。其れは今も昔も変わらない。けれど私は、中也みたいな従順で、忠誠心を抱いた狗がとても嫌いでゝ仕方がないのだよ。本当なら一刻も早く君を殺していたけれど……」
 太宰の贖罪に呼応し、俺は俺で淡々と述べていた。
「"絶対服従"の前では、何人たりとも頭を垂れる他ねェんだ、仮令屑の手前でもな」
「悔しくて堪らないよ。余りにも理不尽が過ぎる。私は首輪を掛けられることが望みなんかじゃない、根底も根底にひっそりと残っているのが真の望みだって、歯を喰い縛って思ってた。無闇矢鱈に爪を立てることが悪足掻きな訳ではないし、誰かに"飼われてる"と思い込んでしまえば最後、死んでるのと大差ない。然う私は叫びたかった」
「時既に遅しな其れを、俺に云ったところで、事は傾きもしねェぞ」
 聞きながら暗に胸中に渦巻いていた事柄を告げれば、頭に手を添え、太宰は頷いた。
「正しく然うだよ。本当に愚かで笑えもしない。精神力が未だ幼稚だったからこそ、心の奥底で見えないよう蓋をしていた感情が堰を切って溢れ出して堪えられなく成って初めて、私はポートマフィアと云う永久の闇から逃げ出したかったのだと心の底から思えたのだよ」
 聞き終わらない内に、首領の言葉が同時に俺の脳裏を掠めた。
 ──『若しかしなくても、太宰君は永久及び、永遠が存在しないことに、織田君の一件で気付かされていたのかもしれないね』
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「──成程なァ?」
 胸中でのみ呟いた心算だったが、如何やら声として出ていたようで、確り太宰の耳に入り、「君如きに──」等と切り出したのを遮り、俺は云い放った。
「──逃げ出す切っ掛けを、首領は呉れたんだ」
「は!? な訳ないでしょ、偶像崇拝も大概にしてよ中也!!」
 太宰を煽らぬよう静かに云ったが、其れが逆効果と成り、俄に声を荒らげた太宰は地面に崩れ落ち、大粒の涙を流した。突然の変異に驚き返答に戸惑う。泣き崩れてしまう程、醜態を晒す程に大切な存在だったのなら、俺の処へ来るのは一体どんな心理だ? 等と問い詰めたい事柄が山積みではある。だからこそ、確認せずにはいられない。
「血相変えてる暇有んなら一刻も早く引き下がれ、見窄らしい。見捨てた癖して被害者気取りで泣き着きかァ、だっせェの」
 然し、本音が一つも口から出て来ず、寧ろ正反対な其ればかりで、舌を打って気を持ち直した後、更に追い討ちを仕掛ける。
「考えてみろ、織田のことを。あれはなァ、手前のマフィアとしての度量を測る為、首領が計画したんだとよ。御本人が仰ってたぞ」
 依然として太宰は少しも様子が安定することはなく、血走った目で俺を見上げた。
「そんなことの、あんな首領──ひと──の為に、織田作は死んだのだね!?」
「黙って聞け」
「ん゛ぐっ」
 頭を抱え蹲る太宰の口許を右手で塞ぎ、一息にかつて耳にした首領の言葉を反芻する。
 「あんなァ、首領はこうも仰られてたんだ。孰れ──然う近くない内に、自分を殺して首領の座に頓挫して──すわって──いるだろうと」
「……」
「にしては足りなかったんだろうなァ、手前の器がよ」
 云い終わると同時にさっと手を離し、見下す形で告げれば、呆れ返った表情で、太宰は小さいゝ声でぼやいた。
「試されるだけ試されて此の様か……所詮、私も飼い狗に過ぎなかったってことか」
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 結局太宰を俺の家迄連れて行き、身体を綺麗に洗わせ軽食を振舞った後、改めて会話をする場を設けた。
 手頃な衣服が見当たらなかったが、数年前に此処に太宰が泊まり込んだ際の衣服が残っており、無いよりはマシだろうと思い、妥協することと成った。
 其れはさておき、ソファでテレビを観ながら物思いに耽っている隣にそっと腰を落とし、声を潜めて問い掛けた。
「遣りたかったこと、ぶつけたかったことはもう終いか? ──太宰」
「……気づいてたの?」
 垢抜けた表情で俺の方へと振り返り、太宰は目を丸くした。
「何年手前を見てきたと思ってる、七年だぞ七年。厭でも手前の思考やら傾向やら手に取るように見えて来る」
「……本当、進む道を間違えたよ」
 現在の探偵社のことを云っているのだとしたら、有り得ない発言だ。其れこそ苦し紛れの云い訳にしか聞こえない上、とんだ我儘でもある。黒を捨て白へ染まろうとする此奴は、一体、何を求めて、今を生きている──? 死にてェのなら、嫌がらせ等企てずに、静かに、静かに息を引き取れば、こうして俺に咎められることはなかった筈だ。
 家に帰った際に淹れた机上の湯気を立てている二人分のココアの、太宰の方に手を伸ばし、横へと倒した。マグカップの縁からココアが零れ、机に染みを作った。怪訝な視線を向ける太宰に、説き伏せるようにして俺は云った。
「俺が云いてェのは然う云う善悪じゃねェんだよ面倒臭ェ。良いか? 手前は他人を殺しちまった時決まって誰かに縋り付いてたろ? 現に今だって然うだ。贖罪してェんならとっとと自殺すりゃァ逃れられるっつう安易な考えに至らなかった辺り、マフィアには向いてねェと云えんだ」
 云って、布巾で机の拭き取りを済ませると、太宰は又取り乱し始めた。相当心を抉られる内容だと全身で訴えられる。
「云わないで、止めて、ねェ、私、私……」
 俺の方を見ながら身を震わせ、口許を両手で覆い、明らかに俺からの言葉を恐れている太宰の肩を叩いて、俺は付け加えた。
「相棒では在ったが線引きはしてっから、干渉は無駄だ」
 幾ら俺から干渉するにしたって、無駄でしかない。今どれだけ悔やもうと、喪った存在はもう二度と目を覚まさない。だが太宰は俺に干渉をさせようとする。贖罪が自分一人では到底荷が重いと、揺らぐ視線が伝えている。
 そんな表情に戸惑い口を噤んだ俺に、太宰は支離滅裂に叫んだ。
「じゃァ、じゃァ、殺せ、落魄した私なんて。目障りだろう、嫌悪しか抱かないだろう、私は、私は主人が居なければ一歩たりとも進めないから……」
 ──『もうリヰドを引いて呉れる存在は居ないのに、自分の力で進んでるなんて、一周回って羨ましいよ』
 一瞬、少し前に聞いた一言が脳裏を掠めたが、矢張り、此奴は俺を羨ましがっている。然う思わせておけば都合の良い奴で居て呉れるだろうという単純明快な思い上がりの其れだ。
 背を摩り胸中で上記を考えつつ、俺は呟いた。
「此の期に及んで戯言か、下らねェ」
「……」
「げ、もう二時に成って遣がる、俺ァ寝っから手前も早く寝ろよ」
 欠伸交じりに部屋の時計を見れば、深夜二時をとうの昔に過ぎており、そそくさと立ち上がれば、哀しげな目付きで太宰が呟いた。
「そっか、然うなんだね、落とし主に用はないってことなんだね」
 考えなくとも、其れなりの返答を心待ちにしている太宰を横目で見遣り、
「手前は俺が殺す、判ったら夜も遅ェ、早く寝るんだな」
 等と就寝を促せば、聞き飽きた皮肉が返って来る。
「優しさがどれ程痛いのか、君は知らないんだもんね。さぞ愉しい毎日が待っているんでしょ?」
「闇に差すのは黒より昏いもんだけだ、光の方が余程太宰向きだ」
 さっさと寝ねェと家から追い出すぞと付け加え、太宰をソファから無理矢理引き剥がし寝室へと向かう。心に響いたのか、口角を緩めながら着いて来る太宰に多少の愛らしさを憶える。直ぐに勘違いだ、俺は疲れているだけだと己を落ち着けると、ふと太宰が俺を呼んだ。
「……ね、中也」
「んだよ」
 流石に眠気が襲って来ていることもあり、ぶっきら棒な返事をしてしまったが、其の儘太宰は問い掛けた。
「私を殺さないでいて呉れてるのって、私に本来生きるべき世界──光を視ていてほしいから?」
 もう眠気と疲労の影響で殆ど頭が回らない俺は、言葉を選ぶ行為が億劫に成り、頭に浮かんだ言葉をそっくり其の儘太宰に放った。
「他人を引っ張る羊飼いなら造作もねェことだろ、自分で考えろ」
 すると太宰は宛ら餓鬼の笑い声を上げ、俺に謝罪をした。
「無駄に頭だけ回るところからすりゃ、私は大分復活したみたいだよ。態々聞いて呉れて御免ね、中也」
 ひらゝと手を振って寝室の扉を開き、未だに二つ並んでいる寝台に倒れ込んだ。
 俺は俺で隣に音を立てて寝転び、回らない頭で返事を寄越した。
「謝りてェんなら早く寝ろ、明日早ェんだろ如何せ」
「ふふっ、中也は変わらないねェ」
 段々、段々、人間は変わるものだと誰かから耳にした記憶が有るが、案外間違っている、という訳ではないようだ。と考えたのも束の間、俺の瞼は閉じられた。勘違いか否か、頬の辺りが冷たかったが、屹度これも、太宰と云う名の道化師の悪戯だと口許に孤を描けば、俺の意識は手放されて行った。

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